このところ毎日、テキトーに続けてきた「Gの徘徊」の築地フォトエッセイは、
昭和の終わりの空気をたどる旅として、
ひとつのまとまりに近づいてきました。
勝鬨橋、築地、晴海通り、そしてあの頃の街の匂い。
これらの風景は、いずれ“章”として再編集していくつもりです。
これからも、ゆっくりと太らせていきますので、
どうぞ気長にお付き合いください。

よろしくたのんます
築地場外は、食だけでなく“街の気配”そのものが記憶に残る場所だった。
晴海通りの門を出ると、
天竹の大看板と自転車屋が並んでいた。
市場の出口と街の入口が重なる“境界の風景”だった。
東都水ビルの裏口から外がし、多け乃、天竹へと流れる動線は、
市場の人間、電通、朝日新聞の社員が自然に混ざる“築地の交差点”だった。
波除神社は市場の守り神で、
誰もが何かしらの形で手を合わせていた。
天竹の主人の小銭の話は、
築地の信心の象徴のように思えた。
そして、
魚河岸情報局という個人サイトを運営していた頃の自分も、
築地の風景の一部だった。
鉢巻を締めて魚を抱えたピクセルキャラは、
現場の自分とネットの自分をつなぐ“もうひとりの自分”だった。
場外を歩く記憶は、
目的があるようでないような、
G の徘徊そのものだった。
足が勝手に知っている道を歩き、
風景が勝手に語り出す。
そのリズムが、築地という街の呼吸だった。
築地場外は、働く人間の胃袋を支える“街の台所”だった。
東都水ビルの裏口から一歩出ると、そこには毎日のように通った店々が並んでいた。
”外がし” は、老夫婦が切り盛りする静かな名店だった。
昼は十食ほどの仕込みで、なくなれば暖簾をしまう。
中落ちが出る日は即完売。
秋には松茸ご飯が湯気を立て、場外の喧騒を忘れさせた。
魚河岸を去る少し前、体調を崩して入院していた間に、おいちゃんは亡くなった。
あの店の灯りは、築地の生活の一部だった。
”多け乃” は、船のブリッジのような二階席と、
下へ向かって声を落とす伝声管がある独特の造りだった。
「焼き物追加で」と筒に声を入れると、
厨房から「了解」と返ってくる。
市場の男たちの夜を支える店だった。
”天竹” は、晴海通りの門の向かいに大きな看板を掲げていた。
芝居小屋のような外観で、場外のランドマークだった。
主人は波除さんに“ありったけの小銭”を入れる人で、
その話を当時、やはり波除さんにいつも行っていたうちの社長が誇らしげに語っていた。
”ふじの” は市場の喧騒をそのまま飲み込むような中華で、
“幸軒” は場外の生活の温度をそのまま器にしたような優しい味だった。
この二つが築地の中華の両翼だった。
外がし、多け乃、天竹、ふじの、幸軒。
どの店も、ただの飲食店ではなく、
その時の自分の気分や生活のリズムと結びついた場所だった。
仕事の合間を縫い、海幸橋を渡って場内へ繰り出す時間は、
築地で働く者だけに許された小さなご褒美だった。
橋の上を吹き抜ける潮風の向こうに、
湯気と匂いが渦巻く“食の聖地”が広がっている。
「豊ちゃん」の乗っけは、
皿の上に惜しげもなく重ねられた揚げ物とご飯の重さが、
朝の労働で空っぽになった身体にずしりと染み込んだ。
「中栄」のインドカレーは、
スパイスの香りがセリ場の冷気を一瞬で吹き飛ばし、
汗が額をつたうほどの熱をくれた。
「ふぢの」のラーメンは、
市場の喧騒をそのままスープに溶かし込んだような味で、
食べ終わる頃には指先まで温まっていた。
そして「吉野家」の牛丼は、
築地で働く者にとって“帰る場所”のような存在だった。
時には、大和寿司へ電話を入れる。
「今から行くよ」と告げると、
大将は裏口を少しだけ開けて待っていてくれた。
行列客の視線を背中に感じながら、
そっと忍び込む。
カウンターの奥で、大将が“ちびけた出刃”を手に、
脂の乗った身を静かに切り出してくれる。
その一切れを口に運ぶ瞬間、
築地で働く者だけが知る“粋”が舌の上に広がった。
もちろん、後で事務所に届く請求書は高額だった。
それでも、
あの味、あの空気、あの背徳感は、
築地で働く者の誇りの一部だった。
市場の冷気と鉄の匂いの中で働くからこそ、
この一杯、この一切れが、
何よりも尊く感じられたのだ。
セリ落とされた「命」を運ぶのは、使い込まれたフォークリフトだった。
塗装の剥げや錆のひとつひとつに、毎日の労働の重みが刻まれている。
潮待茶屋では、頭上には「72 戸塚」「71 淀橋」などの看板が掲げられ、
それだけで市場全体の物流の地図が読み取れた。
運転席に座る男たちは、ほとんど言葉を交わさない。
それでも、身体は迷わずに動く。
セリ場から荷捌き場へ、冷蔵庫から岸壁へ、
何百回と繰り返したルートが、
まるで市場の血流のように彼らの中に染み込んでいた。
秋田送りの冷凍マカジキを運ぶ時は、
頭を落とした数本を木の長箱に並べ、氷を詰めて蓋をする。
その箱を会社のフォークリフトのカゴに入れ、
私は自分の手で荷捌き場まで運んでいた。
霧の中で手を振ってくれた仲買人の顔は、今でもくっきり思い出せる。
市場の床には、フォークリフトのタイヤ跡が幾重にも重なり、
それはまるで魚河岸の年輪のようだった。
セリが終わる七時過ぎ、
鉄の馬たちはようやく動きを緩め、
次の日のために静かに眠りにつく。
築地の朝は、
こうして“鉄の足跡”によって支えられていた。

現在はトラック搬入が主体となったが、
かつては岸壁に横付けされた船が、
まるで巨大な胃袋のように市場へ海の恵みを吐き出していた。
汐留から引き込まれた鮮魚列車のホームも、
まだ夜が明けきらぬ時間に、
鉄の車輪の音を響かせながら市場の裏手に滑り込んでいた。
夜中のうちに保冷車へ積み込まれた冷凍マグロは、
セリの時間に間に合うように一本ずつ下ろされ、
セリ場の床に整然と並べられる。
仲買人たちは懐中電灯で尾の断面を照らし、
脂の乗り具合を見極める。
その目は真剣で、声は短く、動きには迷いがない。
この空間には、
「魚を見ている」のではなく「値を見ている」
という緊張感が漂っていた。
午前5時30分、セリが始まる。
マイナス60度で凍りついた巨体から立ち昇る白い霧が、
セリ場を幻想的でありながら冷徹な空気で包み込む。
霧の向こうから聞こえてくるのは、
仲買人たちの短く鋭い掛け声、
セリ人の抑揚のある声、
そしてフォークリフトの警告音。
そのすべてが、
「命の値段」を決める音として響いていた。
セリが終わると、
フォークリフトが一斉に動き出す。
霧の中を縫うように走り、
セリ落とされたマグロを次々と運んでいく。
その様子は、
まるで市場という巨大な生き物の血流のようだった。

市場の曲線に沿って並ぶトラックと、有楽町へ続く街並み。
私の朝は、東都水ビル6階の事務所から、この「巨大な生き物」の目覚めを見下ろすことから始まりました。
ここは、世界中の海から届く原料マグロの相場を動かす、戦いの最前線でした。
波除さんの斜向かい、海幸橋を渡ると築地場内。
橋の上には七味屋がぽつんと店を構え、隣には宝くじの売り場。
その向かいのビルには立体駐車場があり、私はそこに乗用車で通っていました。
始発電車ではセリに間に合わない。
だから車で来るしかなかった。
午前5時半のセリ開始に間に合わせるには、
市場の空気がまだ凍っている時間帯に、
この街に滑り込む必要があったのです。
海幸橋の欄干に手をかけながら、
場内の灯りがじわじわと点いていくのを見ていたこともあります。
七味屋の前を通ると、香りが鼻先をくすぐり、
宝くじ売り場のシャッターがまだ閉まっているのを横目に、
私は築地の“裏口”から市場の心臓部へと入っていく。
この街は、
眠っているようで、
実は誰よりも早く目を覚ましている。
そしてその目覚めに、
私は毎朝、立ち会っていたのです。
—

昭和33年の春、私は築地産院で生まれた。
南砂町の都営アパートから、母はバスに揺られて築地まで通っていたという。
いま思えば、あの頃の南砂町は“世界の原風景”だった。
アパートの前には運河が流れ、
その向こうには大きな工場が煙を上げていた。
明治通りにはチンチン電車が走り、
裏手には貨物線がひっそりと延びていた。
線路脇にはタンポポが群れ咲き、
つくしがにょきりと顔を出していた。
風呂のないアパートで、銭湯が日常だった。
母に連れられて入る女湯。
風呂上がりに飲むピンク色やオレンジ色のジュース。
あの甘さは、いまでも胸の奥にふっと灯る。
大学を出て水産商社に入り、
配達で南砂町を再び訪れたとき、
運河は埋め立てられ、工場は宅配センターに変わっていた。
街はすっかり姿を変えていたが、
貨物線だけは昔のまま、静かに残っていた。
あの線路を見るたびに思う。
自分の“青春の地層”は、ここから始まったのだと。
今日から、この原風景を入口にして、
少しずつ、自分の地層を掘り起こしていこうと思う。