誕生編 〜『青春の地層』の入口として〜

昭和33年の春、私は築地産院で生まれた。

南砂町の都営アパートから、母はバスに揺られて築地まで通っていたという。

いま思えば、あの頃の南砂町は“世界の原風景”だった。

アパートの前には運河が流れ、

その向こうには大きな工場が煙を上げていた。

明治通りにはチンチン電車が走り、

裏手には貨物線がひっそりと延びていた。

線路脇にはタンポポが群れ咲き、

つくしがにょきりと顔を出していた。

風呂のないアパートで、銭湯が日常だった。

母に連れられて入る女湯。

風呂上がりに飲むピンク色やオレンジ色のジュース。

あの甘さは、いまでも胸の奥にふっと灯る。

大学を出て水産商社に入り、

配達で南砂町を再び訪れたとき、

運河は埋め立てられ、工場は宅配センターに変わっていた。

街はすっかり姿を変えていたが、

貨物線だけは昔のまま、静かに残っていた。

あの線路を見るたびに思う。

自分の“青春の地層”は、ここから始まったのだと。

今日から、この原風景を入口にして、

少しずつ、自分の地層を掘り起こしていこうと思う。

部屋回り

大学の寮には、よく「部屋回り」というものがあった。

今ならケータイで危険を察知して回避できるし、

そもそも寮は個室が当たり前だろう。

私が学生だった頃――かれこれ半世紀前――は、

4人部屋で、その“災難”は日常茶飯事だった。

寮内では、部屋単位や運動部単位で酒盛りが頻繁に行われ、

覇気のある先輩方が度胸試しに、

寝静まった寮生の部屋へ突然やって来る。

そして、直立不動の「自己紹介」。

夜中に叩き起こされ、声を張り上げる。

今思えば、あれも妙な儀式だった。

私は2年生の終わりに寮を出て下宿したので、

その後は「部屋回り」とは縁が切れた。

だが今となっては、いい思い出だし、

自分を磨く鍛錬場でもあったのだと思う。

まあ、今これをやったら、

一発でコンプラ違反だろうけれど。

昼休みの腕立て伏せ 

高校は男子だけの全寮制だった。

大食堂で全学年が三度の食事を一緒にとる光景は、

今思い返しても圧巻だ。

昼休みも全員で一斉に食べ、

先生たちも同じテーブルに並ぶ。

食事が終わると、校舎の屋上や校庭へ、

三々五々散っていく。

中庭でソフトボールをする集団。

屋上で昼寝をする集団。

ラグビー部はラインアウトの練習。

それぞれが、それぞれの場所で時間を過ごしていた。

私は剣道部だった。

一学年上のキャプテンは、昼休みになると一年生を屋上に集め、

腕立て伏せと腹筋を黙々とやらせていた。

キャプテンが片手腕立てを軽々とこなす姿を見て、

「自分も絶対できるようになりたい」

と純粋に思い、毎日熱心に筋トレを続けていた。

その姿を見ていた、剣道部ではない一年生たちが、

「食後に運動しても消化に悪いし、効果ないだろ」

と、遠回しに批判してくることがよくあった。

真剣に何かに取り組んでいると、

必ず横から茶々を入れてくる人がいる。

変わったことをしようとすると、

引きずり戻そうとする空気がある。

あの感じが、どうにも苦手だった。

でも、どうすることもできなかった。

ただ、黙って腕立てを続けるしかなかった。

今思えば、

世の中には思い通りにならないことの方が多いこと、

“普通に振る舞う”というのが実は一番難しいこと、

そういうことを最初に身につけたのが、

あの全寮制の高校だったのだと思う。

あの頃の息苦しさも、

今では少しだけ、ありがたく感じている。

俺も男だ !!

唐突に、中学時代の記憶が浮かんだ。

森田健作さんが青春ドラマで演じていた剣道男子に憧れて、

地元の警察官がボランティアで教えてくれるという流れに乗って、

私は剣道を始めた。

そのまま高校でも剣道部に入ったが、

中学の終わりに少し触れただけの私は、

町道場で鍛えられ、中学大会で名を馳せていた連中には追いつけなかった。

結局、補欠のまま終わった。

大学に入る頃にはラグビーに夢中になり、

親に買ってもらった防具も、

寮に持って行ったものの質屋に預けて流してしまった。

高校時代の剣道部には、正直ほろ苦い記憶しかない。

けれど、一つ上の先輩がよく言っていた

「苦しいときこそメチャクチャ頑張れ」

という言葉だけは、今でも胸の奥に残っている。

あれは、私にとっての priceless な一言だ。

七転八倒して、いまだに起き上がれないままのような気もする。

それでも、どこかでその状態を少し楽しんでいる自分がいる。

きっと、あの頃の“俺も男だ”という気負いが、

今の私のどこかに、まだ静かに息をしているのだろう。

大島のこと(イントロ)

昨日は三宅島のことを書いたから、今日は大島のことを思い出している。

三宅島は、中学を卒業する時に家族が引っ越し、
私は全寮制の高校に入ったので、
思い出といえば夏休みと年末年始の記憶が中心だ。

大島には、小学校2年生から中学を卒業するまで住んでいた。
だから、あの島の記憶はもっと濃い。
残念ながら卒業してから一度も行っていないが、
いつか必ず訪れたい場所だ。
これからの俳徊地としても、何度も登場するだろう。

昨年12月中旬まで、ずっと下関の大学生活を kindle本にまとめていた。
今いちばん行きたいのは下関。
その次に行きたいのが、大島だ。

G(爺ィ)が徘徊したい場所は、まだまだたくさんある。

三宅島一周

朝、ふっと目が覚めたときに、  

三宅島を一周した正月のことを思い出した。

独身の頃は、毎年のように三宅島の実家へ帰省していた。  

30歳の正月、何か記念になることをしたくて、  

思いつきで島を一周してみようと思ったのだ。

三宅島は、伊豆七島の中で大島と八丈島のあいだにある島。  

お椀を伏せたような丸い形で、  

海沿いに集落が点々と続き、  

それらをつなぐ一周30kmの道路がある。  

右に走り出せば、左から帰ってくる——  

そんな単純で、気持ちのいい島だ。

朝8時に出発して、  

帰ってきたら風呂に入って、  

大学ラグビー選手権の準決勝をのんびり観よう。  

そんな算段だったから、あれは1月2日だったのだろう。

高校時代は運動が嫌いだった。  

けれど三年間の寮生活で、体力はいつの間にか人並みに戻り、  

大学ではラグビーを始めた。  

一年生の夏休みには、もっと走れるようになりたくて、  

朝は右へ3km、夕方は左へ3km、  

毎日コツコツ走っていた。

社会人になってからも、  

日曜日はクラブチームでラグビー。  

出張がない日は、夕方に走るか、ジムで泳いでいた。

そんな生活だったから、  

30歳の三宅島一周も“軽く3時間くらいだろう”と踏んでいた。  

ところが準備不足の思いつきランは甘くなく、  

最後の数キロは脚が動かず、  

立ち止まり、歩き、また走り、  

ヘロヘロになって家に戻った。

風呂に入っていたら、  

もう大学ラグビー準決勝の第一試合が始まっていた。  

予定は大幅に狂ったが、  

それもまた、あの頃の自分らしい。

思いついたらすぐ動いてしまう性癖は、  

あれから40年近く経った今も、  

どうやら治っていない。

今朝ふとよみがえった、  

30歳の正月の記憶。  

懐かしくて、少しだけ胸が温かくなった。

記憶も整理

昨日は、1日がかりで押し入れの整理をした。
ホコリをたくさん吸いこんでしまって大変だったけれど、
思い切って中のものを全部出してみた。

プレイステーション初期型、ゲームキューブとそのソフト類。
玄箱などの外付けハードディスク。
家族のアルバム、レーザーディスク(マドンナのライブもあった)。
着なくなった衣類、息子に買ってあげた電子ブロック……。

どれも今は使わなくなったり、着なくなったりしたものばかり。
それでも結局、あまり捨てることができず、
そっと元の場所に戻すことになった。

思い出はちゃんと心の中に置いてあるから、
しっかり整理しようと思っているのに、
なかなか手放せないものだなあ。